ポンコツなぼく、妻に叱られる。
会社を辞める前に妻には、「在宅ワークでお金を稼ぐ」と伝えていました。
他に「やりたいことがある。やりたい仕事がある」とも話していました。
しかし、今現在それらに真剣に取り組んでいません(汗)
それで、ついに妻から・・・
「まるで真剣に取り組んでいるようにみえない、成果を出す気が感じられない」とお𠮟りを受けました。
確かにね・・暇があれば寝転んでばかり、考え事ばかりしてちっとも行動しないのはぼくの悪癖かもしれないね。
でも何もしていないわけでは、もちろんないよー
確かにお金を稼ぐ仕事はたいしてやっていないけれど・・・
今やっていることは
①断薬
19歳から今までずーっと、向精神薬を飲んできました。
だけど、ぼくのなかで、「向精神薬を飲まなければ、仕事に取り組めないなんておかしい!」と思い、断薬開始。
現在3か月経過しています。
禁断症状というか、離脱症状も一時期ひどくありました。とても苦しかった。
今も、時々体調がおかしくなります。
けど、断薬してよかったことの方が沢山ある!
②家事・育児
朝起きてから、娘のごはん支度、洗濯物をたたむ、掃除機をかける。布団を上げる。トイレ掃除をする。娘の歯磨き仕上げから、学校まで送ることもあります。
夕ご飯の支度。宿題を一緒にやる。一緒に遊ぶ。一緒にお風呂。寝かしつけ・・
結構いろいろやっているんですー。
でもね、そろそろむなしくなってきました。
そろそろ活動開始したいな。。。
いいな、と感じられることが、いいなあ。
窓から空が見えて、青い空と白い雲が見える。
窓の下の床のところで寝そべっている。
カーテンがゆれて、ふんわりと静かに風が入ってきて、自分の顔にそっとふれる。
「あぁ、いいなぁ」
いいなぁと感じられる今の心もいいなあ。
「〇〇すべき」という発想は、生きることのみに用いるべき。
こんにちは。
ポンコツたくみんです。
「〇〇すべき」という発想は、生きることのみに用いるべき、という話をさせて下さい。
生まれてきてから、年を重ねて、私たちは他人から沢山の影響を受けます。
「〇〇すべき」という発想も。
「友達は多く持つべき」あるいは「友達は少なくても親友は持つべき」
「正社員で働くべき」あるいは「いい歳になったら社会に出るべき」
「人には親切にするべき」あるいは「人から親切にされる人間になるべき」
どれも間違っていない、正論だなあと思います。
しかし、これらの発想が自分に合っていない時、正論だからと自分に当てはめようとすると苦しくなりますよね。。。
正論だろうと、何であろうと、自分に当てはまらない物は取り入れなくてよいと思います。
「〇〇すべき」という発想は強いて言えば、私は生きることのみに使うべきだと思います。
つまり、「私は生きるべき」。
これに勝る「〇〇すべき」という発想はないのではないかな?と思います。
他人からどんなに低い評価を受けようが、それで死ななくてよい。
死ぬほどつらい状況ならば、逃げたらよい。
生きていればよい。
ポンコツなぼくは人から低く見られたり、悪く思われることに敏感でした。人から悪く思われるくらいなら死んだ方がいいのでは?と極端に思う程でした。
人の目が気になり、苦しく、精神科に通って向精神薬を飲んでいました。
19歳から飲み始めて、37歳まで飲んでいました。
現在、薬はもう一切飲んでいません。
そして、納得しました。
生きていればよい。
生きていればよい。
自分を大切に。
「常識」にまどわされない。
世の中にはたくさんの「〇〇するべき」という考え方がありますよね。
「ふつうは・・・」「まともに考えると・・・」「常識的にいえば・・・」「ほとんどの人は〇〇してる・・・」
自分自身に軸(自分の軸)がないと、こうした周りの空気や意見に左右されてしまいます。
自分はどうしたいのか、どう考えているのかをしっかりと持っていると周りの意見に必要以上に流されなくなります。
簡単にいえば周りの家族や知り合い全員が自分の考えに反対意見を持っていたとしても、気にならなくなる。自分は間違っていないと心から信じることができる。
すると、「怪しい宗教にでもハマったんじゃ・・・?」「前はいいひとだったのに・・・」などなど、必要以上に心配されることもあります。
次に、「前の〇〇に戻ってもらおう」「助けなきゃ」と必要以上の干渉をしてくる人たちも出てきます。
お金や、言葉や物で、釣って自分の思い通りにさせようとしてくる人たちが出てきます。本人たちは無自覚だとしても、です。
大切なのは、きっと、自分を信じること。間違っているか?正しいのか?と考える(頭で思考して論理的に正解を導き出そうとする)のではなく、自分の直観と感覚を信じてもいいと思うのです。
幸せになるには
一億円あったらどうなるだろう?
そんな妄想をしてみました。
夜、布団に入って、娘の寝かしつけをしながら・・・・
一億円あったら、・・・財布の中身を気にすることなく、美味しいものを好きなだけ食べられる。
回らないお寿司屋で、ウニを食べたり、大トロを食べたり。
一億円あったら、・・・乗りたい車を新車で買って、ドライブを楽しめる。
マツダの赤色のロードスターを購入して、峠道をドライブしたり。
一億円あったら、・・・自分の住みたい家に住むことができる。
平屋の一軒家を買って、夜に庭を眺めながら日本酒を飲んだり。
1億円あったら、色々なことができるぞー、幸せになれるぞー!と想像してみました。
けど、どうしても違和感があります。あれ?想像しても少ししかワクワクしない。
これってぼくが本当に望んでいることなのかな?違うと思う。
「ぼくが、ぼくにとっての幸せを感じることができる心を持つこと」
これがぼくの幸せになる方法だと思いました。
外から与えられて「はい、これが幸せだよ」と渡されて、ぼくは幸せになるのではない。
例えばどこかからお金が沢山急に入ったとして、始めはすっごく嬉しいけど、きっと段々幸せは減っていく。お金の残高が減るのと心の幸福感が比例して減っていってしまう、そんな気がします。
始めはいいんです。嬉しくてドキドキワクワクして、考えるだけで楽しい!っていう状態になるから。けどその状態はずっと続かないのでは?
お金が減ったら不安になるから、増やそうとする。使ったら使った分、それ以上を補填しようとする。
ぼくだったら、きっとそうなる。
与えられた幸せはその程度のものではないかと・・・有限な感じ。
無限な幸せは自分の内側から発生している。
幸せを感じる心では、幸せを次々にキャッチしていくから、いつも幸せ。
不幸せがあったとしても、きっとそれすら幸せの種になってしまう。
「幸せを感じる心」の有無が幸せか不幸せか決める?のかな。
■
仕事を退職して2週間が経とうとしています。
前職は介護職員でした。
月の月収は26万円くらい、手取りで20万ちょっとくらいでしょうか。
辞めてから、本当に安心した時間が流れています。
朝ゆっくり起きられること。
仕事に行くから無理やり朝ご飯を食べることはしなくてよいこと。
時間を常に気にしなくてよいこと。
好きな時に休んでもよいこと。
他人のことを考えなくてよいこと。
自分のやりたいことをやりたいときにやってもよいこと。
向精神薬を飲まなくてもよいこと。
他にも沢山ありますが、このへんのことを感じることができるようになりました。
犠牲にしたのは、職場に行かなくなった対価。つまりお金、です。
それが私の場合、月26万円くらいということです。
健康が第一とは、よく言われますし、言葉の意味としては知っています。
しかし、本当に理解していますでしょうか?
こころの健康も、健康ですよね。
こころの元気がなくなるならば、不健康なことです。
こころとからだは繋がっている。つまり、心身ともに健康である必要があります。
不健康になるくらいならば、仕事は休みましょう。
ポンコツなぼくと、「おうみ君」
私が小学校3年生の時、近所に「おうみ君」という男の子がいました。
「おうみ君」は近所のお母さん達から評判が悪くて、私も母から「おうみ君」とは遊ばないように、と言われていました。どうして評判が悪かったのか、勉強をしないで遊んでばかりいる・・・とか近所の低学年の子達とばかり遊んでいて変な子だ・・・とか。自分より年下の子の体をよく触る変な子・・・そんな評判だったと思います。
「おうみ君」と遊ぶ時は少し後ろめたい気持ちがありつつ遊んでいました。
よく家まで来て遊びに誘ってくれるので、迷惑な気持ちがあったと思います。”本心では遊びたい”けれど、”親や大人に悪く思われたくない”の気持ちでした。
そんな「おうみ君」に誘われて近所の公園に遊びに行った時の出来事。
前日まで雨がそこそこに降っていたので、公園の中の川は増水していました。川幅は2メートルくらい。深さは1メートルくらいでした。
「おうみ君」と、その川をジャンプして飛び越えるという遊びが始まりました。
コンクリが積み重なった高い所からジャンプして、川を飛び越える遊び。
「おうみ君」は小学6年生なので、軽々ジャンプします。
私もドキドキしながら、でもちょっとスリリングな状況にわくわくしながら、、、、ジャンプ!
無事飛び越えたけど、遊ぶ用に持ってきたボールが着地の衝撃で手から離れて、川に落ちてしまった。
「お母さんに買ってもらった大事なボール・・・・・」と思って、ボールを取りに川の中へ入っていくぼく。
もうボールしか目に入っていなかった。服が濡れるとか危ないとか考えていなかった。
公園の川は、高さが1メートルくらいの段々になっていて、少し平坦な流れの後は1メートルくらいの崖がある。
ボールは川の流れでどんどん流れていく。ボールしか目に入っていないから焦って追いかけていく。どんどん崖は迫っていました。
川の流れは速く、小学3年生のぼくの胸元まで水はあって、「どうしよう、どうしよう」と泣きながらボールを追いかけていた時、
体を力強く誰かに抱きかかえられました。
自分より大きな、でも大人に比べたら小さい、小学6年生の男の子の体。
崖の本当に少し手前で、僕は「おうみ君」に助けられました。
その後・・・・「おうみ君」は危ない遊びに小さい子どもを誘った悪い子として、ずいぶん怒られたようです。
後で聞くと、「おうみ君」は学校が嫌で不登校だったそう。不登校がよくないって思われていたから、近所の人たちの評判も悪くて、きっと親御さんも(今思えば)辛かったんだろうと思う。
同級生とうまくいかないから、年下の子と遊びたかっただけなんだろうと思う。勉強も好きじゃないからやらなかっただけだと思う。体を触るなんて、ぼくはされたことがないから、悪い噂に尾ひれ背ひれがくっついただけかもしれない。
少なくても、あの時の「おうみ君」は僕の命を救ってくれたヒーローだった。
速い流れの川の中に飛び込んで、溺れかかっていた僕を救ってくれた。
周りの大人の評判や噂なんかより、僕をしっかりと抱きかかえてくれた感触の方が、僕にとってのリアルだった。
「おうみ君」ありがとう。
今は、どこで、何をしているのかな?
もう会えないかもしれないけど、感謝します。
ありがとう。